①「悪人ほど救われる」って、ほんと?
『歎異抄』第三章に「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」とあるように、阿弥陀さまの本願のお目当ては悪人を第一にお救いくださるということです。
ところが、この「悪人」は世間一般で云われている「道徳や法律に反する悪人」ではなく、欲望や迷いの煩悩が着き纏い、愚かで濁悪な生き方しかできない凡夫のことを云うのです。私たち普通の人間は、この煩悩や愚かさから免れることができず、生死の迷いや苦悩から離れられない存在であるとすれば、みんなこの「悪人」の部類に入るのです。親鸞聖人でさえもご自身を「愚悪な凡夫」として厳しく悲嘆述懐しておられます。
これを履き違えて「悪いことをすればするほど救われる」といって無反省的に悪を繰り返すことを「造悪無碍」と言います。阿弥陀さまはこのような人をも救おうとしておはたらきになっているのですが、悲しいかな、その人が背を向けていて、阿弥陀さまの方に心を向けない限りは救いようがないのです。『歎異抄』の「悪人」は白分の悪を厳しく見つめ、漸傀し、廻心して阿弥陀さまにすべてをおまかせする人のことです。くれぐれもお間違えのないように。
②「往生」って、ほんとの意味は?
私たちは日常生活の中で、いやなことがあったり、困った事に出遇ったりすると、よく「往生する」という言葉を口にします。そうです。わたしもあなたも、この言葉を何度となく口にしたことがあり、それがいつも大変困った時の口癖になっているのです。こうして私たちは「往生」という言葉に悪いイメージを持ち、けぎらいしがちなのですが、いかがなものでしょうか。
「往生」は元々仏教用語で「お浄土(みほとけの国)に生まれさせていただくこと」という意味です。ところが、私たちは、生身の体を喜ばせる世間的な快楽を貪ることに目がくらみ、あらゆる迷いや不安、苦惱、怨憎等の渦の中から抜け出ることができないのです。そして私たちが最も恐れ、忌み嫌うのが死ぬことです。仏教は、この「死」に対する恐れ、不安、迷いから離れ出ることを覚りと言い、阿弥陀さまの本願には、すべての人をこの境地に至らせることが誓われています。このことが「阿弥陀さまのお浄土に生まれさせていただくこと」であり、「往生」本来の意味です。この「往生」を悪い意味でしか使えない私たちは、まだ本当の仏法にも本願にも遇うことのできない愚かな凡夫なのです。早く阿弥陀さまのお呼びにお応えして称えるお念仏のありがたさに気づかせていただき、信心喜ぶ人となり、本当の「往生」の意味を味わわせていただきましょう。
③お仏壇は何のためにあるの?
お仏壇は一般に先祖をまつるためのものとされ、葬式や年忌法要の時だけに必要なものと思われていますが、果たしてそれでいいのでしょうか。真宗では浄土のありさまをあらわすものとして日常の家庭生活の中で信心を喜ぶ大切な場なのです。中央の須弥壇の上に宮殿があり、そこにご本尊の阿弥陀如来像(または絵像)が安置されています。それは「方便法身の尊像」と云って、私たちを本願の真実にお導きくださるために来現なされたお姿です。またそれは阿弥陀さまがお浄土から私たちをお招きになっているお姿です。三毒煩悩にまみれた私たちが現に生きるこの世には、不安、恐怖、迷い、苦痛等が渦巻いていて、特に現代の世界は国の内外を問わず醜い争いや侵害が続出して地獄絵さながらのありさまです。み仏に命を授かり、み仏に生かされている私たち人間が、み仏に背を向け、み仏の慈悲を忘れて、こんなにあさましい世の中を自ら造り上げているのです。だから今こそ私たち一人一人の心の転換が大事なのです。でもそれはそんなに難しいことではありません。お仏壇の前で手を合わせて「南無阿弥陀仏」と称えるだけでいいのです。そうすればその内に自分の声がそのまま阿弥陀さまの呼び声になり、そのお慈悲に遇わさせていただけるのです。即ち安らぎの心を得るのです。まず一人が実践すれば、それは家族みんなに輪がひろがり、喜びと感謝で和願愛語のすばらしい家庭が実現できると思います。
④「機法一体」って、どんなこと?
真宗において「機法一体」ということをよく耳にしますが、どんなことでしょうか。これは「機と法が一体になっている」ということですが、この「機」とは現在俗に言われている機械の「機」でも機会の「機」でもありません。仏教では「仏道の教えを聞いて修行する各人の能力や性質のこと」を意味する言葉として用いられ、「機根」とか「根機」とも言います。即ちこの「機」は法に対する言葉であり、仏の法を承る人間(衆生)のことをそのように呼んでいるのです。「南無阿弥陀仏」六字の解釈に「南無」の二字が衆生の「たすけたまえ」という心(機)を示し、「阿弥陀仏」という四字が「衆生を必ず救う」という阿弥陀仏の御心(法)を示していて、この機と法とが「南無阿弥陀仏」というお名号の中において一体となって阿弥陀さまの本願の御心が完成されているということです。また他力の信心において、衆生が自分自身に本来具わっている愚悪な姿を見つめる(機の深信)と阿弥陀さまが私たちを本願によってお救いくださることを信ずる(法の深信)が一体となって同時に成立していることも「機法一体」と言います。これは善導大師が説かれた「二種深信」であり、親鸞聖人もそれをお承けになり、他力の信心を獲得なされたこ自身のお姿として真宗のあるべき道をお示しいただいているのです。
⑤現世利益和讃とお念仏
私たち日本人は普通だれでも、お宮さんやお寺にお参りするとき、今よりも幸せになることを神さまや仏さまにお願いしようとする心、すなわち 「何かご利益をさずかりたい」という心を持っています。それはややもすると「現世利益」といって、神さまや仏さまに人間の欲望・煩悩にからんだ無理な願い事をおねだりすることになってはいないでしょうか。病気や事故や天災など、もろもろの不幸は、神さまや仏さまが起こしているわけでもないし、起こるべくして起こるという縁起の法にそむくようなことはあり得ないのです。だから願い事が叶わなかったとき、神も仏も信じられないという最悪の不幸に落ち込むことになるのです。親鸞聖人は「現世利益和讃」の中で、お念仏を称え、阿弥陀さまを信じることこそ、このような人間の煩悩による迷いや不幸から解放され、常に阿弥陀さまのみもとにいて信心を喜ぶという、この世での最も大きな利益であると説いておられます。
私たち真宗門徒は、このお念仏によって本当の「現世利益」をおのずからいただいているのです。
⑥「御安心章」って、なに?
私たち真宗では宗祖親鸞聖人の御教えどおりに他力信心の道を歩ませていただいておりますが、その肝要(大事な要点)を、私たちに呼びかける形で示された文章が木辺派では「御安心章」と呼ばれるものです。他派では「御文章」や「お文」と呼ばれています。近頃は自分の家にお仏壇があっても近づこうとする人が少なくなったので気のつかない人が多いことと思いますが、そのお仏壇を開けて見られたら必ず木箱に収められたこの「御安心章」が見つかると思います。ご本をひらけると、漢字まじりのカタカナで今の時代には馴染みの薄い昔言葉の文語文が目にとまることでしょう。しかし、よくよく味わって読むと、現代を生きる私たちが忘れがちな教訓を言葉の奥から掘り起こしたり、既に失ってしまったものを取り戻したりして、安らかな心の自分をあらためて発見できるのではないでしょうか。私たちは日常生活の中で、何の心配もないことを「安心」と言います。つまり、自分や身内等に差し迫る危険とか恐ろしいこととか人に裏切られたり脅されたりするなど、不安に思うことがなくなったら「もう安心だ」と、心の底から言葉を発します。また身の回りがいつも安定していて安全な状態であれば「安心して暮らせる」と言います。二十一世紀になって世情は三毒に汚され、「民主主義」、「平和」、「平等」という言葉も空しく響く「偽り」の多い昨今です。「ほとけの誠」を求める「信心」こそ「安心」であり、人の心に本当の安らかさをもたらすものです。
⑦「信心」と「念仏」
私たち真宗においては、阿弥陀さまの本願によって救われゆくことを信じて念仏を申すことがいちばん大事なことです。この「本願を信ずる心」が「信心」であり、「救われゆく喜びと感謝の心が口に表われ出ること」が「念仏」です。信心のない所には本当の念仏は発らないし、また念仏を称えたとしても信心が伴わなければ本当の念仏とは言えません。信心と念仏は別々にあるものではなく、常に一体となっているものです。このことから私たち真宗では、信心は「信」、念仏は「行」として「行即信、信即行」とか「行信不ニ」と言っています。そしてこの「念仏」も「信心」もどちらもが阿弥陀さまから賜ったものであり、愚かで罪深い私たちには持ち合わせているものではないのです。だから阿弥陀さまの本願力によって回向されたものをありがたくいただくのであって、それを他力と言うのです。親鸞聖人は『教行信証』の中で「大行」、「大信」として崇めておられます。
自力の人は、こうして本願力によって賜った信心と念仏なのに、自分の力で得たという驕りがあり、自分の力をたのみとし、本願力の広大な威徳を信じようとしないのです。これでは「正しい信」とは言えません。
私たち真宗門徒が日常お勤めする『正信偈』は『正信念仏偈』として『教行信証』(行巻)に出ていますが、これは「正しい信心」も「正しい念仏」も他力によるものであって、決して「自力」という驕りに陥らないように真の道をお示しくださっているのです。
⑧なぜ「他力」なの?
真宗の教えは他力念仏だと云われています。他力というのは人間の力を超えた自然の大きな力のことで、それを親鸞聖人は「無上仏」と名づけられました。その無上仏が「阿弥陀」という名を示して、この世の衆生を迷いや苦悩から救うためにお誓いになったのが「本願」と云われます。本願の最も中心となるのが第十八願であって、「なむあみだぶつ」と、名号を称える者はすべてお浄土(仏の安楽国)へお迎えくださることです。阿弥陀さまは、この宇宙が限りない広さと永遠の時の流れの中で森羅万象を成り立たせるためにはたらく力そのものなのです。本願の名号は、阿弥陀さまが絶対無限の力をもってお呼びくださる御言なのです。私たち衆生は限りある寿命と限りある能力を持って生き、しかも煩悩が常につきまとっているので、常に迷い、不安や苦悩の中でしか生きられません。せっかく人間として生まれながら本当の生き方を知らないまま迷って生きているのです。阿弥陀さまは、このような私たちのために「お念仏」をお授けくださったのです。このお心をいただいて阿弥陀さまにすべてをおまかせすることが「他力の信心」なのでず。
⑨「念仏は非行・非善」って、どんなこと?
『歎異抄』第八章に「念仏は行者のために非行・非善なり。」と説かれています。現代の言葉では「非行」は「ひこう」と読み、「よくない行い」、「道にはずれた行為」のことを言います。だから「非行少年」等と言うように社会に迷惑な存在と誤解されてしまいそうです。「非善」は一般的に使われていませんが、これも「善にあらず」即ち「よくないこと」と言えぱ「悪いこと」になってしまいます。このような解釈のままで『歎異抄』を読めば「念仏は道にはずれた悪いことで、社会に迷惑をおよぼすもの」という風に、とんでもない誤解を招くことが懸念されます。ここで「非行・非善」の本当の意味を考えて見ましょう。「非行」は「行にあらず」で「自分の力でする修行ではない」ということです。「非善」は「自分が自分の力で善い行いをして、それを自慢したり功とするものではない」という意味です。ここに念仏は自力の心で称えるものではないという親鸞聖人の御心がこめられているのです。それはそのまま阿弥陀さまの本願の御心であり、阿弥陀さまから戴いた念仏により私たちはこの世の苦痛や迷いから救われゆく身となるのです。そのために自分の力で何とかしようと、いくらもがいてもどうにもならないことです。だから阿弥陀さまにすべてをおまかせする外に道がないのです。これを他力の信心と言います。念仏は阿弥陀さまが私たちをお呼びになる御声でもあります。このお呼びに応え、自力の心をなくして阿弥陀さまの御心のままに念仏することが「非行・非善」なのです。
⑩「念仏」もうせば、親孝行ができるの?
『歎異抄』第五章に「親鸞は、父母の教養のためとて一辺にても念仏もうしたることいまだそうらわず」と述べられています。これだけを見ると、親鸞聖人はいかにも親不孝で冷たい人のように感じられますが、果たしてそのように受けとめていいのでしょうか? 親孝行は恩愛の情で結ばれた衆生縁の中で世間的な善として行うものです。昔から「親の恩は山よりも高く、海よりも深い」と言われてきましたし、またその恩に報いるためにいくら孝行を尽くしても尽くしきれないとも言われています。こういった意味から、普通だれでも親孝行をしたいと思う心が起こるのがごく自然な姿だと思います。ところがその親孝行の仕方は種々様々あるのですが、それらは皆自分の努力によって行うべきものです。したがって、もし親孝行のために念仏を称えようとする人がいるとしたら、その人の念仏は自力の念仏と云わざるを得ません。またそれは世間的道徳としては立派な行いだと認められたとしても、自分自身の迷いの解決には繋がらないものです。すなわち、親孝行という世間的な善は、それがたとえ念仏であっても、自分の心、自分の力にすがりついているだけで、本当の往生には何の効力もないのです。親の往生が気にかかるのは一種の親孝行でしょうが、だからといって自分の称える念仏の力で親を往生させようとするのは、おこがましい自力の心があるからです。阿弥陀さまの本願を信じていたら、そんな心配は不要です。親鸞聖人は、このことをご自身が心の底から信じ、広く世の人々にお示し下さっているのです。
⑪「法名」って、なに?
ふだんは滅多に使わないのに、人が亡くなると、お葬式の時に「法名」(真宗)とか「戒名」(他門)をあわてて探したり求めたりする人をよく見かけます。果たしてそれだけのこととして片づけていいものでしょうか。
「法名」は本来、仏法に帰依した人につけられる名のことで、真宗では、得度式を受けて僧籍に入った人や一般の人が帰敬式(おかみそり)を受けた時に授けられるものです。上に「釋(釈)」の字がつけられるのは、お釈迦さまの「釈」の字をいただき、お釈迦さまの身内に加えていただいた証しとなるものです。ちなみに他門で言われる「戒名」は、仏教徒の規律としての「戒律」を守ることを誓った人に授けられるものです。この「戒律」はとても厳しく難しいもので、普通の人間には到底守ることができません。だとすれば、それを守れない私たちが救われる道ではありません。戒律を守れない私たちでも阿弥陀さまのみ法を聞き本願を信じて念仏を称えれば救われるというのが真宗の教えです。この道を歩む証しとして授けられるのが「法名」なのです。決して死んでからつける名前ではありません。法名をいただいて念仏に生きる喜びを持っては如何でしょうか。
⑫「和讃」って、なに?
私たち真宗では、正信偈をお唱えした後、念仏と和讃をお唱えすることになっていて「弥陀成仏のこのかたは いまに十劫をへたまへり」等は、私たちの耳にお馴染みになっています。これを「ご和讃」と云っていることをご存じの方も多いことかと思います。この「和讃」は親鸞聖人がお作りになったもので、和文(漢文に対して日本語文のことを云う)をもって讃嘆する詩という意味です。これは当時流行していた今様の形式を採られたもので、短い四行の詩となっています。親鸞聖人ご撰述の和讃は五百首を越えます。
その中で、『浄土和讃』、『高僧和讃』、『正像末和讃』をまとめて『三帖和讃』と呼んでいます。『浄土和讃』は阿弥陀如来とその浄土の徳を讃えたもので、「冠頭讃」二首に始まり、「讃阿弥陀仏偈讃」四十八首、「大経讃」二十二首、「観経讃」九首、「阿弥陀経讃」五首、「諸経讃」九首、「現世利益和讃」十五首、「勢至讃」八首、合計百十八首からなっています。『高僧和讃』は七高僧の教えをわかりやすく讃嘆されたもので、「龍樹讃」十首、「天親讃」十首、「曇鸞讃」三十四首、「道綽讃」七首、「善導讃」二十六首、「源信讃」十首、「源空讃」二十首からなっています。『正像末和讃』は「正像末浄土和讃」五十八首、「誡疑讃」二十三首、
「皇太子聖徳奉讃」十一首、「愚禿悲歎述懐」十六首からなっています。
紙面の都合により概略の紹介だけにしておきます。